コラム
平常心是道 — 平らかな心が、そのまま道になる
2026-08-29
平常心とは、力を抜いた心ではない
平常心是道(びょうじょうしんこれみち)。いつもの心が、そのまま道だ——そう読める禅語だ。だが「平常心」という三字は、日本語のなかで少しやせて伝わっている気がする。試合前に「平常心で」と言うとき、そこには「緊張するな、いつも通りに」という意味しか残っていない。禅語のもとの平常心は、そういう「気持ちをならす技術」の話ではない。作為をまじえない、はからいのない心。良し悪しを勘定する前の、ただそこにある心のことだ。
この言葉は、南泉普願(なんせんふがん)と弟子の趙州(じょうしゅう)の問答から来ている。趙州が「道とは何ですか」と問うと、南泉は「平常心是道」と答えた。では、その道に向かおうとすればよいのですかと重ねると、南泉は「向かおうとした時点で、もう背いている」と返す。道を求めて手をのばした瞬間に、道から離れる。この一言が、私が筆を持つときにいちばん効いてくる。
「うまく書こう」が線を濁らせる
書は、はからいがそのまま出てしまう表現だ。半切1/2(35×68cm)に一文字を書くとき、「今日はいい線を書こう」と思って筆をおろした日は、たいてい線が濁る。穂先が紙に触れる前から、手が結果を欲しがっている。欲しがる手は先へ先へと急いで、起筆の一点で墨がじゅうぶんに沈む前に走り出す。そうして書いた横画は、上っ面をすべったような、芯のない線になる。
逆に、何も足さず何も引かず、ただ息を吐きながら筆をおろした日の線には、こちらが狙っていない太りと痩せが自然に入る。南泉の言う「向かおうとした時点で背く」は、精神論ではなく、私にとって筆先で毎日確かめている物理だ。求めれば濁り、まかせれば通る。日常是好日がその日をそのまま受け取る言葉なら、平常心是道は、受け取った心のまま手を動かせという、もう一歩踏み込んだ教えだと思っている。
特別な一枚を、狙って書けたことはない
膠(にかわ)のかすかな匂いのなか青墨を磨り、湯気の立つ硯を前に息を整える。この磨る時間が、私にとっての平常心をつくる場所だ。三十分ほど、腕の重みだけで墨をおろしていると、「いい作品を書きたい」というはからいが、少しずつ底に沈んでいく。磨り終える頃には、書こうとしていた気負いが薄まって、ただ書く準備だけが残る。
以前、個展に出す一枚を「これは勝負作だ」と決めて机に向かったことがある。特別な心で書こうとすればするほど、手がこわばった。同じ字を四十枚ほど書いて、どれも力みが起筆に溜まり、黒く固まる。結局その日は一枚も選べなかった。数日後、稽古の流れのなかで、特別だと思わずに書いた一枚に、探していた静けさがあった。狙って特別を出そうとした心が、まさに道に背いていたのだ。それ以来、私は「今日の一枚」を決めて座らない。いつも通り磨り、いつも通り書く。特別は、平常のなかからしか現れない。毎日の稽古を崩さないのは、平常という土台がなければ、いい線の一本も立たないからだ。
平常心是道は、静かにしていろという言葉ではない。書きたい気持ちも、うまくいかない焦りも、消さなくていい。それを勘定に入れず、いつもの手でいつものように筆をおろす。その平らかさが、そのまま一本の線になる。私が毎朝、特別を狙わずに墨を磨るのは、この一句を頭ではなく手で確かめ直すためだ。
