夢香

コラム

只管 — 『ただ書く』の『ただ』とは、何を捨てることか

2026-08-12

「只管」は、手段を捨てた先にある

只管(しかん)は「ひたすら」「ただそれだけ」を指す。禅でこの語が重く扱われるのは、道元の説いた「只管打坐(しかんたざ)」——ただ坐る——による。坐禅を悟りへの手段とはせず、坐ること自体をそのまま悟りとみなす。修行と証(さとり)を分けない「修証一等」の構えだ。何かを得るために坐るのではない。ただ坐る。目的を外したところに、この語は立っている。

書に引きつければ、「ただ書く」になる。だがこの「ただ」がいちばん難しい。上手くなるために書く、人に見せるために書く、褒められるために書く——その「ために」を一つずつ外していった先に、ようやく「ただ書く」が残る。只管とは、書く行為から目的を差し引いていく引き算だ。一字書が足すのではなく消す作業であること(無という一字)と、これは同じ根から出ている。

目的は、必ず線に出る

厄介なのは、目的が手に残っていると、それがそのまま線に出てしまうことだ。「今日は良い一枚を撮ろう」と思って筆を持った朝の線は、起筆がわずかに構える。入りの一点で筆先が「見せる形」を探しにいって、ほんの少し遅れる。その遅れは自分にしか分からないほど微かだが、半切1/2(35×68cm)の白い紙の上では、後から見ると確かに濁って見える。狙った線は、狙いのぶんだけ重い。

だから私は、朝いちばんの臨書を「捨てる前提」で書くようにしている。本紙に向かう前に、古典を数十枚、上手い下手を数えずにただ通す。青墨をすり、膠のわずかに重い匂いのなかで、正座の膝が痺れてくる頃、やっと「良く書こう」とする自分が薄くなる。痺れを数えるのをやめられたとき、線から「ために」が抜けはじめる。稽古を毎朝の型として続ける理由も、結局はここにある(毎日の稽古をどう組むか)。只管は特別な精神状態ではなく、手が余計な目的を忘れるまで手を動かし続ける、その退屈な反復のことだ。

個展を終えて、また「ただ書く」に戻る

先日、麻布十番のパレットギャラリーで初個展「Zen 展」を終えた(会期は8月5日から10日まで)。会期中は、来てくれた人にどう見えるか、どの一枚が響くか——「見せる」目的が、いやでも手に入り込む。閉幕の翌日、久しぶりに誰にも見せる予定のない紙に向かったとき、はじめの数枚はまだ会場の視線を引きずっていた。線が観客を探していた。それに気づいて、また一つずつ目的を外していく。個展の前も、最中も、あとも、やることは同じだった。ただ書く、に戻る。

一度、この「ただ」を取り違えて外したことがある。「目的を捨てる」を、「雑に、投げやりに書く」ことだと勘違いした時期だ。力を抜けばいいのだと思って、丁寧さまで一緒に捨てた。残ったのは自由な線ではなく、ただだらしない線だった。只管の「ただ」は、手を抜くことではない。全力で書きながら、その全力から「見返り」だけを抜くことだ。丁寧に、けれど誰のためでもなく書く。この矛盾のような一点に立てた朝だけ、線が軽くなる。禅語を線にする作業については書と禅にも書いた。ただ書く、はいつも、いちばん近くにあって、いちばん遠い。

執筆・監修

夢香 MUKYO

東京を拠点に活動する書家。古典に立脚した書から現代的な書まで手がけ、書の魅力を世界へ発信する。