夢香

コラム

墨のつや — 墨色に艶はどこから来るのか

2026-09-03

乾いてから、墨は本性を見せる

書いている最中の墨は、どれも黒く濡れて光っている。その光は水の艶で、墨の艶ではない。本当のつやが分かるのは、乾いてからだ。

半切(35×136cm)に同じ一字を、二種類の墨で書き分けて乾かしてみると、はっきりする。片方は乾いた後も奥から鈍く光を返し、片方は水が抜けた瞬間に艶を失って、灰がかって沈む。同じ「黒」を書いたはずなのに、翌朝の紙の上では別の物質のように見える。墨のつやとは、乾いた後にも墨が光を返す力のことだと私は思っている。

艶をつくっているのは、煤ではなく膠

黒さそのものは煤(すす)が担う。けれど艶を決めているのは、煤を粒として紙に留める膠(にかわ)のほうだ。膠は動物の骨や皮から取る接着の成分で、乾くと透明な薄い膜になる。この膜が煤の粒を包んで平らに寝かせると、表面がなめらかになり、光をそろえて返す——それが艶として見える。膠が痩せて煤がむき出しに散ると、光は乱反射して、同じ黒でもぼんやり沈む。

だから新しい墨ほど艶が出やすく、膠の枯れた古墨(こぼく)は艶より枯れた深みに寄る。私が祝いの言葉を書くとき、あえて新しめの油煙墨(ゆえんぼく)を選ぶのは、あの膠のつやが、めでたさの華やぎと合うからだ。逆に、静かな禅語を書く夜には、艶を落ち着かせたくて少し寝かせた墨を持つ。艶を出すか、殺すか。墨を選ぶ時点で半分決めている。この膠の匂いについては膠と墨の匂いにも書いた。

磨り方で、艶は死ぬ

同じ墨でも、磨り方で艶は簡単に死ぬ。

急いで力を込め、硯の海でぐいぐい往復させると、膠が泡立ってしまう。泡の混じった墨は、乾くと表面に細かい凹凸が残り、光を返さない。私はこれで何度も失敗した。TikTok LIVE の本番前、時間がなくて墨を荒く磨った日、書いた字は濃いのに、翌朝には艶がまったく無く、粉を刷いたように白茶けて見えた。濃さと艶は別物だ。濃く磨れば艶が出るわけではない。

いまは、力を抜いて、円を描くようにゆっくり磨る。膠を泡立てず、水にほどくように下ろすと、艶は素直に出る。磨る時間はだいたい五分から十分、硯の海がとろりと重くなり、筆を入れて糸を引くくらいが目安だ。艶は、磨っている手の静けさがそのまま写る。詳しくは墨の磨り方に譲る。

紙が艶を映すか、吸うか

最後の変数は紙だ。同じ墨を同じように磨っても、載せる紙で艶はまるで変わる。にじみを抑えた締まった紙は、膠の膜を表面に留めるので艶が乗りやすい。反対に、綿のように柔らかく吸い込みの強い画仙紙は、墨が繊維の奥まで沈むぶん、表面に返る艶は控えめになる。

私は艶をきちんと見せたい作品では、目の詰まった紙を選ぶ。前に、柔らかい紙で艶を出そうと墨を濃くしすぎ、かえって黒が平らに潰れて、つやも深みも消えたことがある。艶は墨だけでは決まらない——膠と、磨る手と、紙。この三つがそろって初めて、乾いた後の紙が光を返す。墨色そのものの見方は墨色の美にも重なる。つやは足すものではなく、殺さないもの。私はそう思って、今日も力を抜いて墨を磨る。

執筆・監修

夢香 MUKYO

東京を拠点に活動する書家。古典に立脚した書から現代的な書まで手がけ、書の魅力を世界へ発信する。