コラム
大人になって書を再び手にするとき、何から戻ればいいか
2026-07-15
十年ぶりの一画は、たいてい思い通りにならない
大人になって書を再開した人の最初の一画を、私は稽古場で何度も見てきた。多くの場合、その線は本人が覚えているより硬い。子どもの頃、手本の上に半紙(24.3×33.3cm)を敷いてなぞった記憶の手と、いま実際に動く手のあいだには、十年ぶんの別の癖が挟まっている。パソコンで文字を打ち、署名くらいしか手で書かなくなった手は、筆を「正しく」持とうとするほど力む。それで思うように線が出ず、こんなはずではなかった、と筆を置いてしまう。
けれど私は、その硬さは戻りかけの証拠だと思っている。手が完全に忘れているなら緊張もしない。緊張するのは、体のどこかが昔の感覚を探しているからだ。だから再開の最初にやることは、上手く書こうとすることではなく、まず力を抜くことのほうにある。
戻るのは「上手さ」ではなく「時間の質」
大人の再開で私がいちばん惜しいと思うのは、いきなり昔いちばん上手かった頃の字を取り戻そうとして焦る人だ。段位や賞状の記憶が邪魔をする。私はそこには戻らなくていいと考えている。理由は単純で、大人になってから書に向かう時間は、子どもの頃の稽古とは質がまるで違うからだ。
子どもの私は、先生に言われた回数だけ楷書を書いた。いまその同じ楷書を書く大人は、一画ごとに墨の匂いを感じ、正座した膝の痺れに気づき、窓の外の音が止まる瞬間を知っている。この感受性は子どもにはなかったものだ。だから再開組にはまず、王羲之や欧陽詢の古典を臨書するより先に、好きな一字——「無」でも自分の名前の一字でもいい——を、濃さを変えて十枚書くことを勧める。上手い下手ではなく、今日の自分の線がどう出るかを見る時間として書く。それだけで、書は宿題から対話に変わる。
道具は、昔のままでなくていい
再開のとき、押し入れから出てきた昔の道具をそのまま使う人が多い。固まった墨液、毛先の割れた筆、乾いてひび割れた硯。私は、筆だけは買い直すことを勧めている。子どもの頃の細筆は、大人の手には小さすぎることが多いからだ。半紙に楷書なら、穂の長さ4〜5cmほどの兼毫筆が一本あればいい。高価なものはいらない。
私自身、しばらく書から離れていた時期に、久しぶりに握った筆でまるで別人の線が出て戸惑ったことがある。焦って何十枚も書き、かえって線が固くなった。そのとき救われたのは、上達を数えるのをやめて、墨をする三分間だけを丁寧にやると決めた日からだった。膠のわずかに甘い匂いが立つあいだ、手はもう書き始めている。再開とは、この静かな三分間に戻ることだ。
最初の一本の選び方ははじめての筆、どう選ぶかに、力みをほどく体の使い方は姿勢と呼吸に詳しく書いた。うまく書けない時期の意味は守破離も合わせて読んでほしい。戻る先は、昔の自分の上手さではなく、いまの自分の線だ。
