コラム
なぜ書の個展に、香と音を入れたのか — 見る前の呼吸をそろえる
2026-07-28
白い壁の前に、まず空気を置く
麻布十番の個展を準備しながら、私が壁の作品と同じくらい時間をかけて決めているのは、会場にどんな香を置き、どんな音を敷くか、ということだ。書の展示に香りや音を入れると言うと、演出が過ぎると聞こえるかもしれない。でも私の考えはむしろ逆で、香と音は作品に足す装飾ではなく、観る人の呼吸を書に合わせるための、引き算に近い仕掛けだと思っている。
書は静かな作品だ。半切に引いた一本の線は、大声で自己主張しない。だから会場に入った人が、駅の雑踏や仕事の続きの速さのまま壁の前に立つと、線の遅さが伝わらないまま通り過ぎてしまう。作品を変えることはできない。変えられるのは、線の前に立つまでの一分の空気のほうだ。香と音は、その一分をつくるために置いている。
香は、入口に一つだけ
無人の会場を借りられた日、私はまず何も掛けていない壁の前で、いくつかの香を試した。沈香、白檀、それから普段稽古で使う松煙墨そのものの匂い。がらんとした部屋を端から端まで歩くと、香が入口の近くに溜まり、奥へ行くほど薄れていくのがはっきり分かる。空調の吹き出し口の下では、焚いてすぐ流れて消えてしまう場所もあった。
試した末に私が決めたのは、沈香を入口寄りに一つだけ、細く焚くことだ。会場全体を香らせない。理由は単純で、部屋じゅうに香りを満たすと、五分もすれば鼻が慣れて、香っていることに気づかなくなるからだ。それでは意味がない。入口で一度だけ香をくぐってもらい、あとは作品と向き合ううちに香りが薄れていく——その減衰のなかで見てほしい。なぜ書の前に香を焚くのかという話そのものは書と香 — 書く前の時間を、香がつくるに書いた。会場では、稽古場で私がしていることを、観る人の側でもう一度起こしたいだけだ。それに松煙墨で書いた作品は、近づけばそれ自体がかすかに墨の匂いを返す。香は主役ではなく、その墨の匂いへ鼻を開かせるための、前触れでいい。
旋律を流さない、という選び方
音では一度、はっきり失敗している。ある会場で普通に音楽を流したことがあるのだが、旋律が作品より前に出てしまい、人が曲の拍に合わせて歩いていった。リズムが観る速度を決めてしまったのだ。書を音楽と一緒に語ることはできるし、そこには確かにリズムや呼吸の共通言語がある——それは書道と音楽の共鳴に書いたとおりだ。けれど「聴きながら書く」ことと「作品の前で聴かせる」ことは、まったく別の判断だと今は思う。
だから個展で敷くのは、旋律のない低い持続音にする。音量も抑えて、来場者の足音や、紙が空気を含んでいる気配を消さない程度に留める。私が音に求めるのは、方向を与えないことだ。旋律は「次はこちら」と観る順番を指示してしまうが、輪郭のない低い音は、ただ部屋の静けさに底を敷くだけで、どこから見てもいいと観る人に許してくれる。
香で鼻を開き、音で足を緩める。そうして呼吸がひと呼吸ぶんゆっくりになった状態で、はじめて壁の線の前に立ってほしい。会期や道順は個展「Zen 展」のご案内にまとめている。香も音も、作品ではない。作品を見る人の呼吸を整えるために、私が壁の外側に置いた、もう一つの余白だ。
