コラム
青墨と茶墨 — 墨の色を選ぶということ
2026-08-02
「黒」はひとつではない
墨は黒い。そう思っていた頃の自分に、いま一番伝えたいことがある。黒はひとつではない。
濃く磨れば、どの墨もほとんど同じ黒に見える。違いが出るのは、水を多く含ませて薄く磨ったとき——淡墨(たんぼく)にしたときだ。青墨(せいぼく)は青みを帯びて冷たく澄み、茶墨(ちゃぼく)は赤茶に沈んで温かい。同じ紙に並べて書くと、別の絵の具かと思うほど違う。
墨の色は、線が生きているかどうかとは別の、もうひとつの選択肢だと私は思っている。
青墨は遠くへ、茶墨は近くへ
青墨は、青みがかった黒。もともと松の煤で作る松煙墨(しょうえんぼく)が青みを持ちやすく、そこに藍系の染料を加えて色を立たせたものが多い。淡墨にすると、にじみの縁に青がうっすら残る。この青の帯が、線を奥へ、遠くへ引いていく。かなや、水墨のような静かな表現でよく使われるのは、この距離感のためだ。
茶墨は、赤茶を帯びた黒。温度でいえば、青墨が冬の朝なら、茶墨は夕方に近い。古い墨——古墨(こぼく)は年を経るほど角が取れ、茶に寄っていく。その枯れた色を、人は古くから好んできた。私は、漢字の重い一字を濃く書くとき、茶墨を選ぶことがある。黒がべったりと平らにならず、奥に赤い温もりが残るからだ。
冷たさを書きたいか、温もりを書きたいか。墨を選ぶ時点で、線の性格は半分決まっている。
淡墨で青墨に助けられた日
青墨の力を思い知ったのは、失敗からだった。
半切(35×136cm)の半分に、薄く磨った墨で一字を置こうとしたとき、普通の油煙墨だと薄めた黒がどうしても灰色に濁って見えた。何枚書いても、水っぽく安い。青墨に替えて同じ濃度で磨り直したら、灰色だったところに透明感が戻った。青が一滴あるだけで、薄い墨は「薄い黒」ではなく「澄んだ色」になる。TikTok LIVE で淡墨を書く夜は、たいてい青墨を横に置いている。
逆に茶墨で失敗もした。祝いの言葉を明るく書こうとして茶墨を濃くしたら、想定より赤が出て、めでたさより古びた印象になった。茶墨の赤は、濃度で表情が大きく動く。薄めれば枯れた品、濃くすれば時代がかった重み。狙いと濃さが合っていないと、色に足をすくわれる。
磨っているときに、色は分かる
青墨と茶墨は、書く前——磨っている段階で、もう手応えが違う。青墨は硬く締まった軸が多く、硯の海に下ろすと石を擦るような乾いた抵抗がある。茶墨、とくに古墨は角が丸く、膠が枯れているぶん、するすると軽く、粉が水に溶けるのが早い。目を閉じて磨っていても、今日どちらを持っているか手で分かるくらいだ。
匂いも違う。おろしたての青墨はどこか青竹に似た涼しい香りが立ち、寝かせた茶墨は膠の甘さが引いて土のような匂いに変わる。梅雨どき、古い茶墨を磨ると匂いが濃く出るので、私は窓を細く開けてから始める。
一度、青墨を磨ったあとの硯をよく洗わずに茶墨を下ろしたことがある。海に青がわずかに残っていて、茶墨の赤が濁った紫に転んだ。狙った枯れた赤は出ず、その日の半切は全部反故になった。以来、色墨を替える日は硯を二度洗う。硯の海は前の色を覚えている——硯の手入れを怠ると、次に磨る色へ必ず出る。磨っている時間は、色を決めている時間でもある。
どう選ぶか、という話
道具として揃えるなら、まず普通の墨を一本きちんと使い込むのが先だと思う。青墨も茶墨も、黒を知っている手が使うから効いてくる。そのうえで、淡墨で静かなものを書きたい人には青墨を、漢字を温かく重く置きたい人には茶墨を勧めたい。
墨の色は、墨の磨り方や紙との相性と切り離せない。色を足すという発想をさらに広げれば、黒以外を許す彩墨の世界にもつながっていく。青か、茶か。その一歩手前で、自分がいま冷たい線を書きたいのか温かい線を書きたいのかを問うこと——墨を選ぶとは、そういうことだと思っている。
