コラム
色墨という選択 — 墨に色を許すとき
2026-07-24
まず、黒を疑わない
色墨(いろずみ)を初めて溶いた日のことを、よく覚えている。朱を水に落とすと、墨とは違う速さで広がった。墨が和紙の繊維をゆっくり掴んでいくのに対して、顔料は表面を走る。同じ半紙のはずなのに、筆に返ってくる抵抗がまるで違う。膠(にかわ)の匂いは墨と近いのに、線の生まれ方が別物だった。
だから、色を使うかと聞かれると、私はまず「使わない理由」から考える。黒は沈黙で、沈黙は強い。一本の線に三千年の美を宿す、と言うとき、その線はたいてい黒い。色を足すというのは、黒で足りているものに、もう一言を加えることだ。その一言が本当に要るのか——そこを疑わないまま色を出すと、線は途端に安くなる。饒舌さは、書のいちばん扱いにくい誘惑だと思っている。
色を許す条件
それでも、色を選ぶときがある。私の場合、条件はだいたい三つに絞れる。
ひとつは、言葉が色を持っているとき。祝いの一字、季節の名——文字そのものが温度を帯びている言葉なら、朱や群青がその温度を可視化してくれる。ふたつめは、黒だけでは間が持たないほど大きな面と向き合うとき。全紙(約84×160cm)の余白に黒一字だけを置くと、余白が痩せて見える日がある。そういうとき、落款のわきに小さく朱を一点入れるだけで、白がふたたび張ってくる。みっつめは、個展のように、一枚ではなく空間全体で見せるとき。黒の連なりのなかに一枚だけ群青を混ぜると、部屋の呼吸が変わる。
共通しているのは、色を「主役」にはしないということ。色は、黒の沈黙を支える一音であって、旋律そのものではない。だから朱を使う日でも、私は先に黒でその字を何枚も書いて、線が立ってから色に移る。黒が立っていない字は、色を足しても立たない。
色に負けて、書き損じた話
失敗もした。個展に向けた試作で、祝いの言葉を明るく見せたくて朱を濃く溶いたことがある。狙いは華やぎだったのに、上がってきた紙は、めでたさより、古びた朱印状のような重さになった。顔料は濃度で表情が大きく動く。薄めれば澄んだ品、濃くすれば時代がかった鈍さ——狙いと濃さがずれていると、色のほうに線が引きずられる。
その日、十数枚を反故(ほご)にして分かったのは、色は黒より正直だということだ。黒なら濃淡のわずかな幅に逃げ場があるが、色は合っているか外しているかがはっきり出る。ごまかしが利かない点で、色は黒と同じ厳しさを持っている。
黒のなかにも色はある、という話は青墨と茶墨に書いた。そこからさらに一歩、顔料そのものを扱う世界は彩墨に詳しい。私にとって色墨は、技術というより判断だ。この字は黒で足りているか、それとも一言だけ色が要るのか。その問いに正直に答えられたときだけ、色は線の味方になる。八月の個展でも、色を使う紙はごく数枚に絞るつもりでいる。
